真穴座敷雛の特色

棟梁性

 真穴地区の雛(ひな)様(さま)建(た)て(地元ではこう呼ぶ)の最大の特色は棟梁性である。
棟梁とは、特別な資格や免許があるわけではなく、雛様建てに際してすべての責任者で、総指揮者のことを言う。雛祭りが盛んになり始めた江戸末期から大正時代までは、当家(初雛を建てる家)の父親や祖父母がまとめ役となり、親戚縁者が数日から一週間かけて八~十四畳の座敷に合議の上で小庭園を造り雛人形を配して作成するのが通例だった。しかし、このような合議制の中にも穴井地区では、穴井歌舞伎(現存する衣裳小道具は八幡浜市の有形民俗文化財)の舞台装置作成の技術を生かした作風が現れた。歌舞伎関係者の卓越した技術が買われて、雛様建ての指揮者として当家より請われて、総指揮者となり製作に当たった人が「棟梁」である。昭和の初期頃より穴井地区から真網代地区へと棟梁が出かけて行き、穴井式雛様建が広がっていった。
 昭和三十年頃よりテレビ等情報化社会の急速な発展は、真穴の里の雛祭り行事が取りあげられ、報道されるとその豪華絢爛さが、評判を呼んだ。そして、この頃より、『題』がつけられそのテ-マに沿って建てられた。このときにマスコミがつけた名称が、「座敷雛」であり、真穴の座敷雛として定着していった。全国に広まると長女の雛祭りである家庭行事から、見せる行事になり二週間以上の準備になったりするその間、毎日二十名近くのボランティア手伝い人の指示等の総合的指導、指揮が求められている。当家から作風の好みによって、棟梁を依頼されて無償で引き受けている。平成に入り活躍している棟梁は、真網代地区三名、穴井地区六名である。

棟梁性

結いの精神

 真穴地区は、四国と九州の間にある宇和海に面したリアス式海岸の地域に位置している。背後は三百米クラスの急峻な山であり、平野が無く大きい川がないため米作りは出来ない。幅の狭い段々畑の畑作地帯である。海は太平洋から入り込んでいるため漁業は沿岸漁業である。
 田舎には珍しく製糸、縞織物、漁網、機織り物工場があり、往時は地区民の六人に一人が女工さんであったというデ-タが残っている。このような小規模の地区で、地縁、血縁に結ばれている所では農繁期や漁獲時には地域全体で、忙しいときの協力、互助の精神が育成されてきた。明治大正の農繁期で女子の働きの場として、工場があり現金収入を確保できることは使用者と女工さんは互恵関係でもあった。女の子が生まれると家計の助けにもなるし、経済力の保証が地域発展のためにも喜ばれたのが座敷雛を盛んにした理由である。後に海外に出ていくアメリカ移民に行っての仕送り、やがて、温州みかんの「真穴みかん」のブランド化に成功して経済的に豊かになり、地域全体の「結いの精神」で豪華絢爛たる座敷雛が公開できるようになったのである。座敷雛が百五十年間脈々と継続されたのは、運命共同体的地域の「結いの精神」に負うところが多い。

結いの精神